「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11 

ある人が、家族や親族の救いを願い、切に祈っていた。そして家では、親族に福音を伝え、証しをしていた。救われて欲しい一心だった。しかし、熱心に伝えれば伝えるほど、けむたがられ、避けられ、親族からは拒否反応が出た。嫌な顔をされるのだが、意に介さず、ガンガン押しつけがましく話したのだった。

 

段々、家族は、彼女の信仰に心を閉じて行ってしまった。やがて、家を出て、遠方で仕事に就いた。しかし、その仕事はどうしてもうまく行かず、挫折してしまった。対人関係でもうまく行かず苦しみ、深い傷を負った。ぼろぼろになり、行き詰まり、仕事を辞め、一旦家に戻った。

 

家族としばし生活したが、妹が「お姉さん変わった。今のお姉さん嫌いじゃない」と言った。耳を傾けて、話を聞いてくれた。以前の自分がいかに高慢であったかを思い知った。心の内では、自分は聖い、他の人のような罪人ではないと思っていた。まさにパリサイ人であった。つらい試練を通して、砕かれた。

 

試練は、決して嬉しいものではなく、痛い。しかし、主が苦しみを通し、砕いて下さる事は、感謝以外の何ものでもない。苦しみが、高慢を砕いてくれる。「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした」痛いが、祝福の道だ。幸せへと導いてくれる。「私たちの益のため・・ご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」。聖められ、成長が与えられて行く。

 

-------------主から来た痛さ、つらさだと受け止めて立つ時に試練の中に希望が見えて来る。試練を通して自分では変えられない所、捨てられないものをどのように主が取り扱ってくださるだろう。