「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」マルコ11:33

主は宮で商売をしている人々を追い出したが、祭司長、律法学者、長老たちは、何の権威によっているのかと、主に詰め寄った。すると主が逆に問いかけた。「ヨハネのバプテスマは天からか、人からか」と。天からと言えば、なぜ信じないとなり、人からと言えば、群衆はヨハネを預言者だと思っているので、人からどう思われるかが怖い。

 

どちらの側にも立たず、「わかりません」に逃げ込んだ。結局、真理は何か、何が真実かということでなく、自分が、人にどう思われるかであり、自分の立場を守る事が判断基準であった。時々、祈っているのだが、主の導きが、御心が、なかなかわからないことがある。そんな時、この祭司長や律法学者のような態度がないか、心探ってみよう。

 

態度をはっきりさせたくなくて、逃げていたい。あいまいのままにしておきたい。従って行くための犠牲を払いたくない。あっちにも、こっちにも良く思われたい。どちらも欲しい。結局、自分の思い通りに生きたい。しかし、時に、はっきり迫られる。「群衆なのか、主なのか」「人の評価か、神の評価か」。「わかりません」と逃げると、「わたしも・・話すまい」と言われた。

 

「わかりません」と逃げないで、「人を恐れています」「中途半端です」「犠牲を払いたくないです」と、ありのままの姿を認めて、「でも、助けて下さい」と主の助けを求めよう。そうするなら、御心へと導いて下さる。------------真理は御言葉によってはっきりと指し示されている。出来ること、出来ないことを自然に振り分けてしまうが、出来ないことを祈れることが感謝だ。曖昧でない本音の自分で主に応答しよう。