主人は早朝6時から3時間おきに、労務者を雇った。夕5時に雇用の人々は1時間働いただけだった。しかし、主人は労働時間に全く関係無く、全員に同じ1デナリを支払った。早朝の人々は1デナリの賃金契約をし、その契約通りに支払い、それ以降は「相当のもの」と明確な金額の契約は無かった。
だから主人は不当な事は何もしていない。だが多くの時間働いた人々は、もっとくれてもよいとの不満噴出だ。主人の心はあわれみだ。早朝の人は1日中希望と平安があった。1日働けば、確実に1デナリの賃金が入る。家に糧を持って帰れ、家族の喜ぶ姿が目に浮かぶ。
しかし、5時の人は、夕刻までどんなに不安と思い煩いの暗い1日だったろう。家族にその日の糧は無い。妻はどんなに落胆するだろう。どうすれば良いのだろう。不安は、いかばかりだったろう。主人は慈しみと憐れみで一杯だ。主人のあわれみが現れた時、早朝の人々の妬みと怒りが露呈してしまった。肉は恵みに反発する。とんでも無い事だと。
パリサイ人は律法を忠実に行って来た。それが突然、行いは不要、信仰だけによる救いが来た時、反発は高じて主への憎しみになった。自分が否定されてしまうからだ。肉は、自分の行いで認められたいし、評価されたい。自分の力を捨てたくない。私たちも恵みにより無代価で救われていながら、肉によって完成しようとしていないか。
-------------主から受けている恵みとあわれみにただ感謝するばかりだ。いつも自分が5時からの者であることを忘れないでいたい。無代価で救われて、今も守られ愛され続けている。