「わたしの目には、あなたは高価で尊い」イザヤ43:3

ある人が長年第一線で、営業マンとしてバリバリ働いていた。コンスタントに契約が取れ、営業成績もトップクラスだった。しかしある時、仕事上で失敗をし、そこに難しい対人関係のストレスも絡み、とうとう身体をこわしてしまった。やむなく退かねばならなくなった。

 

その時に、ひどく落ち込んだ。仕事が出来ていた時は、自分が価値ある人間と思えていたが、出来なくなった時、自分の価値を認められなくなったのだ。精神的苦痛であり、どうやっても受け入れ難い事だった。弁解や言い訳で、自分を取り繕おうとするが、無駄だった。

 

又、その仕事上の大きな失敗を、人のせいにしようとしている自分。人をどうしても赦せない自分に苦しんだ。心が悶々状態で、苦しくてどうにもならず、主の御前に出た。御前に静まり、何もかもをことごとく打ち明け、気持ちをぶつけ、心注ぎ出し祈った。

 

十字架が迫った。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」この箇所は今まで他人事だった。その主の祈りが、紛れもなく自分のためである事がわかった。主の赦しの愛を全身に受け取った。そして主は完全に赦し、受け入れて下さっているのに、自分が自分を赦し、受け入れていない事を示された。

 

主の赦しを受け入れた時に、嬉しくてたまらず、心が平安でいっぱいになり、喜びに溢れ、人をも赦す事ができた。そして何が出来なくとも、このままの存在を受け入れて、愛し続けて下さっている主の愛に癒された。この仕事上の大失敗も、病気も、万事益で、この主の愛と赦しを知るためであった事に、心から感謝した。

 

・・・・・・・・・・・・この世の価値観、根深い古い価値観があって、何かが出来る事に価値を見いだそうとする。又、人と比較し、人より秀でようとするのも、自分を認めて欲しいから。だが主の十字架を仰ぐ時に、それらは必要無く、愛されていること、大切に思われていることを知る。