「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26

群衆が、主を追い回していたが、それは、主ご自身を求めではなかった。主がされる奇跡を求めて、「パンを食べて満腹した」通りに、パンを求めて、主の後について行ったのであった。自分の願望が、満たされたいがためだった。私たちの信仰が、自分を軸に置くなら、自分の願いや欲望が満たされている間は、つき従う。

 

つまり、自分の思いと合致している間は良いが、思い通りにならなくなった途端、離れ去る事になる。自分の願いが叶わないなら、失望しつまずく。ついて行く意味が無いからだ。群衆がそうであり、ユダがそうだった。ユダは、主がローマ帝国を覆し、主の王国を築くと思い込んでいた。それが十字架へと向かわれ、自分の思いと違った時に、主を捨てた。

 

私たちは、何のために、主に従っているのだろう。パンのためだろうか。それなら、自分に都合が悪くなった途端、必ず従うことをやめる。軸が自分なので、自分に損か得かで動く。主は信頼できる信仰を探しておられ、信頼できる信仰に、ご自分を任せようとしておられる。

 

つまり、主を自分の利得のために利用するのでなく、主がまことの神であるゆえに、従って行こうとしている人々に、ご自身を現される。その人は、どんなに自分に損になろうと、試練の中も、苦しい中も必ず主に従って行く。そしてそれは、そうするようにと、主が捕らえて下さったからだ。

 

・・・・・・・・・・・・・古い性質は、自分の都合優先だ。損得で動き、メリットがあるから信仰する。しかし新しい性質は、それを悲しみ、主に従いたいと思う。自分では出来ないので、自分を委ねて、明け渡して行く時に、御霊の助けを経験し、世のものではない御霊の喜びを味わう。