「主よ・・私たちにも祈りを教えてください」ルカ11:1

祈りは、学校だと言われている。祈りとは信仰生活の中で、学んで行くもので、最初からよく祈れるわけではないと。実践して行く中で、実地訓練で教えられて行く。「求めよ。そうすれば与えられる」とあるが、時に、なかなか与えられない事を経験する。

 

祈りには原則があり、御心にかなう祈りだけが答えられる。つまり、御心でない祈りは幾ら祈っても答えられない。そのため御心にかなう祈りを知るために、祈るわけだ。祈りの実践の中で、自らの祈りが、主のお心に適うようにと軌道修正されて行く。主が祈りを導いて下さる。求める動機が探られ、正されて行く。

 

目的が正され、核心に導かれ、御心にかなう祈りへと導かれて行く。又、祈りの中で、自分自身の姿が見せられる。砕かれ、整えられて行く。ある人がイベントの祈りで、あるアイデアが浮かんだ。良い案であり御心を確信し、進めようとするが、ギクシャクして思うように行かない。皆の一致が得られない。

 

祈りで得た案であり、更に祈るが、事が進んで行かない。イラ立ちの中で、祈っていた時に、自分の内側を照らされた。確かに主に示された企画だが、意見を異にする人々に反発し、何が何でも押し進めようとする。内に潜む頑なな「自我」に気づかされた。心から悔い改め、自分自身も企画も主に明け渡した。

 

するとその後、不思議に、事が前に進みプロジェクトが組まれ実現して行った。祈る時、答えと共に、私たち自身を造り変え、整え、成長へと導いて下さる。

 

---------自分の思いを告げるだけの祈りが、祈りの中で導き返される。主の御心を求め、御心が成るようにと。主は常に最善のものを与えようとしておられると祈りの中でいつも知らされる。