「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Ⅰヨハネ1:8

バルナバが地所を売って、代金全額を献げた後のこと。アナニヤと妻サッピラも地所を売り、一部を残し、ある部分を使徒たちに渡した。彼らの間違いは、一部ですと献げたなら、何の問題も無いのに、全部の振りをした事だ。これは偽りであり、これは「人を欺いたのではなく、神を欺いた」のだと。そしてそれは「サタンに心を奪われ、聖霊を欺いた」と言われている。

 

サタンから出ていると。その前に全部献げたバルナバが、皆から大賞賛を受けた。その賞賛を自分たちも欲しかった。バルナバに対する羨望、妬みがあったろう。そして夫婦が「妻も承知の上で」「心を合わせて」主の御霊を試みたと。一人が止め、いさめる事なく、一致して神を欺いたことになる。ペテロは、アナニヤにもサッピラにも声をかけ、悔い改めの機会を与えた。

 

しかし、二人とも悔い改める事はなかった。そこで彼らは神に打たれた。どんな罪でも赦される。しかしこの「偽り」が信仰生活に入ると、信仰自体が機能しなくなる。すると信仰の破船だ。聖霊が罪を指摘し、悔い改めを促しても「いいえ」と否定するからだ。自分はそのような者でなく、自分に罪は無いと。悔い改めなど不要と。

 

それなら神を偽り者とすることになり、その時、神の言葉は私たちの内にないと。教会誕生の最初に、この偽りが入ることを御霊は阻止された。人に良く見られようとする時、「偽り」の誘惑が来ている。サタンの誘惑に陥らないために、御前でありのままおれるよう祈ろう。

 

------------神と自分の間に人が大きくなってしまうと人の評価で安心してしまう。自分だけに示される罪や求めに敏感になり御霊の交わりを大切にしたい。