「主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い」哀歌3:22

主は、私たちを豊かにあわれんで下さる。しかし、あわれみを求めるには、へりくだった心が必要だ。へりくだっていなければ、あわれみを求めることは出来ない。私たちは、何か良くない出来事が生じると、自分はなんと不幸せでかわいそうと、人からの関心、配慮、同情を求める。

 

目に見える人の愛が欲しい。しかしだからと言って、主の御前に「こんな罪人の私をあわれんでください」とあわれみを求めるとは限らない。なぜなら、自分の惨めさ、弱さを認めることができないからだ。プライドが許さない。そこまでではない、まだ自分で何とかできると思っていたい。それを認めるのは、余りにも惨め過ぎると思っている。

 

だから、なおも自分の力に頼っている。しかし神のあわれみは、尽きることがなく、それは朝ごとに新しい。徹底的な無力感を感じる時に初めて、自分には力があると思っていたことを知る。そして自分の力でやっていた事がわかる。主が、取り扱いを通して、試練を通して、自分がいかに無力であるかを教えて下さる。自らの無力を知る事こそが、実は大きな祝福だ。

 

その時、「主よ、あわれんで下さい」との心からの叫びが出る。そして、又、自分の強固などうしようもない自我を知る時「主よ、あわれんで下さい」と祈ることができる。そして、主はその祈りに答えて、豊かにあわれんで下さる。

 

-------------神はくり返し失敗し罪を犯すばかりの者を、いつもかえりみて受け止めて続けてくださる。神にあわれみを求める他にできる事があるだろうか。弱さ、惨めさに気づく度にあわれみを求めて祈れる。感謝しかない。