「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」 詩篇33:11

ある人が、思い通りでない、一見マイナスの状況は、悪いものとの価値観の中で、ずっと生きた来た。クリスチャンになっても、その価値観は根に培われていて、そのため思い通りにならない事態が起こると、その悪いものを、主が良くして下さるようにと祈り続けて来た。ところがその祈りが、ことごとく聞かれなかったのだ。

 

「なぜ?どうして?」の悶々を通りながら、その事をも「知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願え」の通りに、なぜですかと問うて行った。その祈りの中で初めて、自分の願い、望みが自分中心である事に気づかされた。

 

主が願われ、望まれるようにではなく、どこまでも自分の願いしかない。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」。自分の思いと自分のプランがあるばかりだ。「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる」主のはかりごとと、主の望む事があることを覚え、自分の思いでなく、主のみ思いが成るようにと、祈りを変えた。

 

その時、自分が変えられて行った。主が望む事が、遂げられて行くのであれば、自分の思いや望み通りでなくても、一番良いのであり、受け入れて行けるよう祈った。その時、生まれて初めて平安を経験した。自分の思い通りでなくて良いとは、何と平安なのだろう。

 

-----------一見、正しいと思える事が曲者で、他の選択肢を認められなくなってしまう。御心と思っても自分の計画ではないのか。前に進まないのは主が大きく変えようとしてくださっている時かもしれない。