「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された」ルカ18:9

「パリサイ人と取税人」のたとえが出て来る。どちらも神殿に来て祈った。パリサイ人はこのように祈った。「神よ。私はほかの人々のように、ゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」と。

 

週に二度断食し、全収入の十分の一を献げていると。悪い事はせず、正しい事をしていると。パリサイ人は「私はほかの人々のように」と、人との比較により自分を見た。人との比較に立つと、必ず優越感と劣等感をグルグル行ったり来たりする。パリサイ人は、そこにいた取税人と比較し、相手を見下し、優越感で自分を誇った。

 

しかし主の一番の御心は、神を愛し、隣人を愛することだ。そこに愛は無かった。「愛が無いなら何の値うちもありません」と言っている。一番肝心なものが抜け落ちていた。内側は、高ぶり、自己正当化、自画自賛、人を見下し裁く思いで一杯だったが、主の教えを守り、従っていると自負していた。一番問題なのは、何の問題も無いと思っていた事だった。

 

人は、自分の問題に、弱さに気づくから、主のもとへ行ける。そして罪赦され、問題は取り扱われ、祈りが答えられて行く。その時、自分を変えて下さった主を誇って行く。御霊が内側の罪、弱さを照らし、気づかされる。弱さを認める事は非常に痛いが、そこにこそ祝福があり、御霊の平安、喜びを経験して行く。

 

・・・・・・・・・・・・どんな罪であれ、失敗であれ、弱さであれ、それを認める時に、主のあわれみは尽きず、素晴らしく良いものへと導いて下さる。肉は弱さは認めたくないし、失敗は自己正当化し責任転嫁したい。御霊に導かれ、認めて行く時に、万事益と祝福へと導かれて行く。