「セムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった」創世記9:23

ノアの箱舟の出来事の後、箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ノアはぶどう畑を作り始めた。そしてぶどう酒を飲んで酔って、天幕の中で裸になっていた。息子のハムがそれを見て、外にいるセムとヤペテに告げた。

 

ハムは父のぶざまな裸の姿を見て、二人の兄たちに、告げ口のようにするが、しかし二人の兄たちは、着物を持って来て、自分たち二人の肩にかけ、後ろ向きに歩いて行って、父の裸をその着物でおおい、父の裸を見なかった。愛は、人の失敗や弱さをあげつらい、辱めるのでなく、それをおおう。ノアは自らの裸をおおってくれた二人の息子を祝福した。

 

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」とある。律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえられた女性を連れて来た。そして主に、モーセは姦淫の女を石打ちにするよう命じていると。あなたはどうするのかと詰め寄った。群衆は好奇心で見物するかのように、そこにいる。主はじっと座って地面に何か書いておられた。

 

そして罪の無い者が石を投げよと、言われた時に、人々は去り、誰もいなくなった。その女性に、主は「婦人よ」と語りかけ、「わたしもあなたを罪に定めない。今から決して罪を犯してはならない」と。その女性の罪を主はおおわれた。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」。私たちも、十字架で罪を赦され、おおわれた幸いな者だ。

 

--------------人の過失だけに目が行くと批判が沸きあがって、次第に批判が正義のように思えてくる。御言葉はその肉とは真逆を示しておられる。愛は多くの罪をおおうと。主におおわれた愛をいつも覚えていたい。