「自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」ヤコブ1:24

みことばを実行せよと言っている。ただ聞くだけで、実行しないなら、自分が欺かれてしまうと。みことばは、自分を映し出す鏡だと言っている。鏡を見る時、自分の姿が見える。そこで髪の乱れを直したり、服装をチェックできる。しかし鏡に映った姿を見て、何もせずそのまま離れたらどうだろう。

 

髪は乱れたまま、服装はちぐはぐなままだ。そして忘れてしまうと。「自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」と。つまり自分には何の問題も無しになってしまう。直すべき点が映し出されるが、スルーするので、そのままで自分は何も変わらない。私たちの心の内も同様だ。自分で自分の心の中はわからない。

 

自分の本当の姿はわからない。鏡があって初めてわかる。みことばが自分の姿を映し出してくれる。しかしその時に、御言葉に向き合い、主に従って行くなら自分が変えられる。しかし立ち去るなら、忘れて、何の問題も無い、

 

すべてOKとなる。自分が変えられる事が無い。 御言葉の下に自分を置き、映し出された自分の姿を見て、立ち去るのでなく、その御言葉に従おう。悔い改めかも知れないし、矯正かも知れない。新しい示しかも知れない。その時、自分が変えられて行く。「その行ないによって祝福されます」成長が与えられて行く。

 

---------------御言葉に向き合い考えると、一つ一つ悔い改めて整えなければならない事ばかりだ。自分の今の状態を知ると痛いが、心底へりくだらされる。一つでも主の御心に成長できたら何と祝福だろう。