「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」ヨハネ9:3

主は、盲人の目に泥を塗り、シロアムの池で洗うように言われた。シロアムの池はエルサレムから1キロほどだそうだが、目の見えない人が行くのは大変な事だ。もし初めての道なら、どんなに困難な事だろう。更に池は下って行かねばならない。「そこで、彼は行って、洗った」とあるが、いい加減な気持ちでは、決して出来ない事だ。

 

又、信じないなら、はなから行かないだろう。しかし彼は、主に言われた通りにした時に、見えるようになった。ここからが問題で、パリサイ人たちが「安息日に癒やした」と主を批判し、彼も連行され尋問された。この男性は、彼らにありのままを話した。パリサイ人たちは主を信じないが、しかし目の前の男性が目が開いた事実は否定出来ない。

 

「あの人を何だと思うのか」と聞かれ、その男性は「預言者」と答えた。男性は、主が誰なのか、よく知らなかったが、預言者でなければ不可能だと思った。パリサイ人たちは、彼の両親を呼び出して、本当に生まれつき盲人なのかと確かめた。再度彼を呼び出し、主が罪人である事を認めるよう迫った。

 

が、彼は盲目であったのが、今は見えるという事実に、神でなければ、そんな事は不可能だと言い切った。会堂から追放された彼に、主がご自身を現された。彼は「主よ。私は信じます」と信じる者にされた。そして主を礼拝した。霊の目が開かれ、真の救いを得た。これこそが、神の栄光であった。

 

-------------心配事や災いがあれば何が悪かったのか、誰の過失かと原因を探してしまう。原因ばかりに気を取られず、災いと同時に主が見せようとされている神の栄光があると、そこをしっかり見つめていよう。