「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と言う」箴言30:15

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、愚かで、有害な多くの欲に陥る」とある。富を手にしても、又幾ら貯えても、決して満足する事がない。飽くことなく更に求める。これは富ではなく、「貪欲」という肉の欲に陥っているからだ。必要が満たされていても、心には決して満足がなく、なおも、どこまでも富を渇き求めて行く。

 

「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって『もう十分だ』と言わない」。果てしなく「くれろ、くれろ」と言い、欲望には際限がない。「金持ちになりたがる」とは富だけでなく、名誉、地位、人からの賞賛、人の上に立ちたいとの欲望だ。ここに誘惑と罠があると。いつも人のものを欲しがり、比較しては、満たされない心で、絶えず欲求不満に陥る。

 

しかし主を見上げる時、どうだろう。私たちは何一つ持たずに、この世に来て、何一つ持たずにこの世を去る。今、生かされている事は恵みだ。主は、いっさい何も思い煩うなと言われる、主の愛におおわれ、必要は必ず備えられ、日々に生きる喜びと平安が与えられている。主が満ち足りる心を与えて下さるので、状況に関係なく満足がある。何と幸いだろう。

 

満足は、外側のものからでなく、主からしか来ない。幸せとは、自分の欲望が満たされる事と思うが、そうではない。そこに満足は無い。更に渇くばかりだ。主に自分を明け渡して行く時、御霊に満たされる。その時、真に心の満たしを経験する。満足が心にある。何と幸いだろう。

 

----------もう十分ですと、神に生かされている存在であることを忘れず、その恵みを素直に喜んで生きていよう。欲求に突き動かされて生きる事が力の証のようなこの世にあって、なんと豊な人生だろう。