「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」箴言16:9

ある人が、神学校への導きを受けた。祈りを重ね、確信を与えられたので入学を果たした。主の示しであり、経済的な必要は、すべて備えられると信じた上での決心だった。貯えからの生活であったが、学生生活の間に、不意の多額の出費や、様々な想定外の必要が生じて、途中で貯金が尽きてしまった。最終学年に進級する時に、授業料が払えなくなった。

 

払えなければ退学だ。御心を確信して来たはず、主は必要は必ず与えて下さるはず・・、祈ったが、しかし与えられなかった。あらゆる奨学金の道も模索したが、開かれなかった。「導きを信じて、職も捨て、郷里を出て来たのに、なぜ?」と、なおも祈ったが、与えられなかった。結局、支払い期日になっても、与えられず、祈った結果なので、もうこれが神の御心と受け止め、学校を辞めて帰ろうと思った。

 

しかし何もかも捨てて来て、これからどうすれば良いのか。失意と落胆を禁じ得なかった。どうにもなすすべなく、もう今後の事も何もかも、いっさいがっさい主にすべて委ねた。すると委ねきった心はすっきりした。そしてその直後だった。自分宛に無名の献金が届いている知らせを受けた。

 

驚いたが、授業料と生活費に必要な額だった。瀬戸際の中で試され、委ねることの意味を、実際を、教えられた。どんな時にも、主の恵みは十分で、歩みを確かなものとして導いて下さる。

 

・・・・・・・・・・・・委ねるということが自分の力では出来ない。試練がやって来るが、試練を通して取り扱われる。どうにも出来ない、行き詰まりの中で、主に委ねる事をさせて下さる。委ねられるのも、恵みによるのであり、主のみわざだ。