「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません」ヤコブ1:13

「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使われている。しかし源が異なる。「試練」は神から来ていて、「誘惑」は悪魔から来る。神は罪に誘惑なさる事はない。誘惑は神からは来ない。そして神から来る「試練」は良いものだ。受け入れて、忍耐して行くなら必ず一段成長する。信仰者の成長のため、益のためのものだ。

 

「試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」この上もなく喜べと。それは試練の時にこそ、信仰を使うからだ。使わざるを得ない状況に追い込まれる。雨の時に傘をさすように、試練の時に信仰を使う。主は必ず良くして下さると信じる、「忍耐」を働かせる時に成長して行く。

 

サタンからの誘惑は決して受け入れてはならない。拒否し、立ち向かうべきものだ。「誘惑」は拒否し、「試練」は受け入れる。この逆をしてはならない。試練は苦しいので、それが誘惑となって来る事も要注意だ。人は自分の欲に引かれ誘惑される。欲望がまず心の中にあり、それが時の経過と共に行為となって表れ出る。

 

丁度赤ん坊が生まれる前にお腹にいるように、その胎児の生命は、実際に生まれる10ケ月前にすでに存在する。同様に欲望を妊娠させて、行為になって表れ、罪を犯してしまうのだと。行為以前の欲望が問題だ。罪の行いはそこから来る。良い贈り物は上から来る。真理のことばによって生まれたとあり、絶えず上を仰ぎ、御霊の助けのもと、真理の御言葉により守られて行く。

 

------------主から目を離すとすぐに迷いサタンの誘惑を聞く。主を仰ごう。主から与えられているものは動機が完全に純粋で試練さえ成長とされる。誘惑を見極め主から与えられている最高のものに目を留めよう。