「また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」エレミヤ24:7

モーセに導かれた出エジプトの際、主は次々に奇跡をされた。パロは、次々と災害に苦しめられると「出て行かせる」と言い、苦難が去り、ほとぼりがさめると「行かせない」と翻す。又、苦難が臨むと「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。行かせる」と言う。

 

「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一見、悔い改めに見えるが、事がおさまると、又、頑なになり強情になる。これは苦難を何とかして欲しいだけで、悔い改めではない。口先だけで、心では思ってはいない事の表れだ。王であり、何もかも自分の思い通りに、思うがままにできたパロにとって、主の奇跡は、単に脅しに過ぎなかった。

 

脅しが無くなれば、問題無い。だから元に戻り、何も変わらない。主のみわざが、悔い改めを生み、主のご愛や真実を知ることにはならなかった。私たちはどうだろう。不都合な出来事は、ただ単に災難であり、苦しみが去りさえすれば良いのだろうか。それならパロと変わりがない。

 

「わたしが主であることを、あなたがたが知るためである」。 信仰生活での様々な困難や問題は、「わたしが主であることを知るため」に送られている。それは、主ご自身が神である事を知る時であり、又、自分の内側が照らされる時だ。悔い改めに導かれるかも知れない。目の前の問題は、「わたしが主であることを知る心を与える」ためと受け取ろう。

 

------------問題の解決のための信仰でなく、自分の強い思いから御心を求めるよう信仰を働かせる時に変えられていく。そして神が御わざをもってご自身を知らせてくださる。その経験が祝福だ。