「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」ガラテヤ2:21

「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」とあるが、邪悪な良心とは、何だろう。良心とは良い心であり、良い心が邪悪という事になって不思議だが。ここでは、主の十字架の血潮だけでは、心が満足できず、それだけでは足らないとして、そこに行いを付け加える。つまり、自分の善行によって、主に受け入れてもらおう、愛されようとする事だ。

 

もし、主の愛を得たくて、受け入れて欲しくて、奉仕をし献げものをするなら、それは人間の力によるものであり、主の十字架を無意味にしてしまう。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」だ。主はいたずらに、無駄に死なれた事になってしまう。

 

良心のとがめがつらいので、良心のとがめを無くしたくて、奉仕や献げもの、善行、親切をしているだろうか。善行で、良心のとがめを無くしたい。それを邪悪な良心と言っている。例えば、人を傷つける言葉や不機嫌な態度で、良心のとがめを感じると、優しく親切な行いをして、自分の内で帳消しにする。何か良い事をして、良心をなだめる。

 

これなら「キリストから離れ、恵みから落ちてしまった」事になると。これは御霊から来る平安ではない。主の血潮のみが、私たちの良心のとがめを消し去る。完全に消し去る。平安を与えられ、真心から神に近づくことができるようにされる。主の血潮以外のものに依存しているなら、きよめていただこう。

 

-----------十字架の血潮によって罪赦されているのに、実際の生活では行いの足りなさを嘆いたり、また行いで安心したりする。主の十字架以外に自分の価値を測ろうとする不自由があるなら祈って行こう。