「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」 詩篇73:28

「苦しい時の神頼み、楽しい時の神離れ」と言われる。苦しい時には、必死になって神に助けをあがき求めるが、物事が順調に行き始めると、神から離れ自力で生きて行く。形は信仰者なのだが、自分の思いで生きて行く。肉で生きて行けてしまうので、神に頼る必要が無い。

 

この世の商売繁盛、家内安全、五穀豊穣ではないが、目の前の仕事の困難を助けて欲しい、不作は困る、経済的必要を与えて欲しい、受験に合格させて欲しいと、主を求める。欲しいものを手にしたい。しかし、得てしまうと、再び自分の道に戻り、自分の道を歩む。そして又、困難が生じると、主のもとへ来る。生涯がこれの繰り返しならどうだろう。

 

欲しいものを得るためだけの主で、自分と主との関係はどうなっているのだろう。勿論、主は「求めなさい。そうすれば与えられます」と、必要を求めるようにと言われ、豊かに与えて下さるお方だ。主は求める事を喜ばれ、その求めに答えて下さり、私たちを喜びで満たして下さる。しかし、主は、私たちが欲しいものを得るための手段ではない。主と私たちの間は、雇用関係でなく、信頼関係だ。

 

私たちが、主を、主として生きて行くことを願っておられる。主として生きて行くとは、苦しみの時も、悲しみの時も、喜びの時も、絶えず主と共にいる事であり、順境であれ逆境であれ、いつも主を求めて行くことだ。愛の関係であり、それはすべての事について感謝する歩みだ。

 

---------------主は心の岩、主は避けどころだ。「しかし私にとっては」と、状況にのまれず、信仰の目で主に向かい主の近くにいることを幸いとする歩みは何と平安だろう。