「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです」ローマ7:15

ある人が、どうしても愛せない人がいた。嫌いで、憎しみをどうする事もできなかった。しかし、憎しみには、とがめを感じ、罪責感が来る。罪意識にさいなまれた。平安もなく、その罪意識から逃れたいがために、逆に、相手に親切にしようと頑張った。憎しみを隠し、ふたをし、罪責感を何とかしたいばかりだった。何とか礼儀正しく接し、愛そうと頑張った。

 

しかし、相手を愛そうとすればするほど、心は、いら立ちと更なる憎しみでいっぱいになり、どうにもならなかった。職場で相手の悪口が言われている時に、自分はクリスチャンであり、口にこそ出して言わないが、しっかり心で同意して溜飲を下げるのであった。愛からはかけ離れた、ほど遠い結果となって行った。

 

この間違いは、行いによって、とがめを無くそうとした事だ。良い行いによって自分を救おうとする。敵対心、憎しみを認めないで、それを抑え込み、ふたをしてしまう。そうではなく、憎しみの感情を光のもとに出し、自分がそういう者であると認める事だ。その時、それはすでに光の中だ。あるがままを認め、告白する時、必ず変えられて行く。御霊が導いて行かれる。

 

大切なのは、まず良い行いでなく、罪を認め、告白し、悔い改める事だ。その時、新しくされ、御霊の働きにあずかる。自分の心が変えられる事を経験して行く。自由にされて行く。

 

・・・・・・・・・「ごめんなさい」だけは回避したくて、罪を認めたくなくて、良い行いでチャラにしたい肉がある。又弱さも認めたくなくて、自力で頑張ろうとしてしまう。御前に罪を認め、又、無力なあるがままを主に打ち明ける時に初めて、あるがまま愛されている事がわかる。