「すると、ユダが兄弟たちに言った・・さあ、ヨセフをイシマエル人に売ろう」創世記37:26

主イエスは、ユダの家系から誕生されたが、そのユダは、ヨセフを隊商に売ろうと言った人物だ。そのユダはカナン人シュアの娘と結婚した。異邦人との結婚だ。子供がエル、オナン、シェラと生まれた。長男エルはカナン人タマルと結婚したが、エルとオナンは御心に反する決定的な事があり、死んでしまった。

 

ユダは嫁のタマルを3男シェラが成人するまで実家に帰した。当時は子供を得るため兄弟と結婚した。しかしシェラが成人になっても、ユダにその意志が無い事を知る。ユダの妻も死に、放置されたままのタマルは一生このままかと思った時に、何とかユダにより、子を得ようと決心する。ユダが近くに来た事を知り、タマルは着替え、ユダを待つ。

 

ユダはタマルを遊女だと思い、関係を持った。その代価に子やぎを後で渡す担保として、印形とひもと杖を渡す。タマルはそれを持ち去り姿を消した。3ヶ月後、タマルの妊娠が発覚。実家に帰省中の妊娠に、ユダは怒り、タマルを焼き殺せと言う。しかし証拠品を出すと、ユダは事実を認めた。タマルは正しい。自分がシェラを与えなかったせいだと。

 

このようなどろどろの家系から、主が生まれた。聖書はいっさい隠さず、罪も恥も汚れもすべてを赤裸々に明らかにしている。学べる事は、主の前で、今のあるがままを主に向いて、正直に生きればよいという事だ。虚栄も繕いも必要無い。血統も関係無い。罪は悔い改めればよい。過去は赦されている。何を背負って来たとしても、今、主に向いて生きる事が大切で、主はすべて受け止め、愛し、豊かに祝福して下さる。

 

・・・・・・・・・・・・普通なら隠すであろう醜聞、とんでもない酷い罪、それらが隠ぺいされる事なく、そのまま記されている。肉は何をするかわからない、罪深い自分の姿だ。しかしそのための主の十字架で、赦され、赦され続けて、いつも新しくされて、前を向いて生きて行ける。驚くべき恵みだ。