「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて・・大胆に恵みの御座に近づこう」ヘブル4:16

新生して以来、私たちは古い性質と新しい性質が、絶えず葛藤している。霊と肉の戦いの中にある。やがてかの日に私たちのからだは変えられる。それまで私たちに、弱さがある事を主はご存じだ。この肉体は疲れ果てるし、病気にもなる。主は肉体をとって地上に来られたので、この事を理解し同情して下さる。

 

主は、あなたのあらゆる弱さをご存じだ。良き理解者だ。同情して下さっている。だから主のゆえに、いつでも恵みの御坐に行く事ができる。私たちは力に溢れている時は、主のためにどんどん働き、主に近いと感じる。逆に弱さを覚え、無力の時はどうだろう。主を遠く感じるだろうか。

 

「何も出来ない者はだめだ」サタンの声が聞こえて来る。罪を犯してしまうと「同じ失敗ばかりしている」「成長がない、自分はだめだ」ひどく落ち込んでしまい、ますます主から遠ざかる。御言葉はどう言っているだろう。「あわれみを受け、恵みをいただいて、大胆に恵みの御座に近づこう」。離れるのでなく、近づけと。

 

恵みの御坐に近づける根拠は「あわれみを受け」「恵みをいただいて」とあり、「あわれみ」と「恵み」だ。自分の功績、自分の力には全くよらない。立派な行いによらない。一方的な愛顧だ。主のあわれみと恵みがあるので、どんなに破れ果てた、ぼろぼろの状態でも、御前に行ける。綺麗になって行くのでなく、あるがままだ。主の「あわれみ」と「恵み」をしっかり心に刻もう。

 

------------恵みが注がれているのに、自分で付加価値をつけたり、主が罪をとりなしてくださるのに罪に気づくと隠す。不信仰を増長させる肉に気づく度に、主に近づき、御言葉を素直に信じよう。