「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。 すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」ヨハ ネ10:4

この世には、様々な声があり、混線している。肉から湧き上がる欲望の声、サタンの誘惑の声、テレビやネットや雑誌の世の様々な価値観の声、そしてその中に、最も大切な主の御声がある。主は羊飼いで、私たちは羊とのたとえがあるが、羊は目の前の事しか見えない。方向音痴で、目の前の美味しい草をあさっている内に、迷子になってしまう。自分がどこにいるかわからない。

 

私たちも羊のように迷いやすい者だ。目の前の美味しいものに、よく考えず、祈りもせずに食いついてしまう。それは自らの欲望と合致しているので、なかなか見分けられない。自分にメリットが無い話には惹かれないが、物質的なものであれ、精神的なものであれ、利得になる話は受け入れてしまう。

 

美味しい話に釣られてしまう。自分が中心にあり、自分に得、自分に損で判断してしまうので道に迷い込んでしまう。神が中心なら、神の御心は?主の判断は?が基準になるので、守られる事になる。自分に都合の良い声だけを聞くなら、自分に痛い、厳しい、いさめる声は聞きたくない。拒否してしまう。

 

主は甘い話で釣られるのでなく、痛い事もはっきりと語られる。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、弟子になることはできない」「自分のいのちまでも憎まない者は弟子になることはできない」。しかし主の御声を聞き分ける羊は、主について行った。主の羊は、主の御声がわかる。どんなに痛くとも、愛の御声であるとわかる。そしてついて行く。

 

・・・・・・・・・・・・主は御声をかけて導かれる。サタンも同じ事をする。声が聞こえて来る。甘いささやきは、自らの欲望と合致しているので、気づかずに乗ってしまう。しかし主を仰ぐ時に御霊の助けが臨む。御霊が御声の方へと導いて下さる。平安に合致する御声だ。