「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるです」ヤコブ1:14

罪には一瞬の快楽があり、甘い心地良さがある。だから、これほどまでに誘惑されるし、引き込まれてしまう。罪が苦いものなら、誰も見向きもしないし、魅力も無い。罪と戯れることは、苦く嫌なものでなく、反対に楽しく、気分良く、快適なのだ。だからこんなにも巧くサタンに引き込まれてしまう。

 

ちょっと戯れるつもりが、罪の奴隷になってしまう。飲酒、ギャンブルしかりだ。自分は大丈夫と思うところに油断があり、そこにつけ込まれてしまう。警戒なく、気がゆるんでいるところを狙われ襲われる。

 

ダビデは、部下が命がけの戦闘状態にあるという時に、夕刻に起き出す怠惰な締まりのない生活をしていた。そこを狙われた。誘惑が来た時に、主を仰がず、祈らず、バテシバとの姦淫の罪へと至ってしまう。ロトも伯父アブラハムと別れて、最初はソドムの「近く」で天幕を張った。中ではない、近くなら、大丈夫と思った。自分さえ、しっかりしてたら大丈夫だと。

 

ところがいつしかソドムの中に入り込み、その中でも影響力を持つ名士になっていた。世と調子を合わせる、妥協した歩みに、娘婿たちは、突然この地が滅びると言われても冗談だと思った。世にどっぷり浸かり、世の名誉、地位、富・・世の美味しいところを手にした生き方は、周囲に何の霊的力も持たなかった。

 

私たちの欲望と合致した魅力的なものを持って、サタンは誘惑して来る。欲望と一つになっているので、気づかない。祈っていよう。祈りにより御霊に気づかせられる。

 

・・・・・・・・・・誘惑されるのは、自分の欲のある所だと言われている。自らの弱さを知り、認めて行けるなら、そこを祈りに持って行ける。祈りで見張っておれる。祈りがある時、守られる。折々に感じる自分の弱さを認め、また、気づきが与えられるよう祈っていよう。