「主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています」詩篇119:75

問題や悩みは、誰しも好きではない。つらく痛い目には会いたくない。できれば避けたいし、平穏な日々が、誰しもの願いだ。しかし御言葉は、正反対のことを言う。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました」と。苦しみがあったから、過ちから救い出されて、今は、主の言葉を守ることができていると。

 

だから自分が過ちを犯したのは、苦しまなかったからという事になる。つまり試練を通して、砕かれ、練られ、鍛えられていないからだと。そしてまた、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」と。苦しみに会ったことが良かった。この世の価値観と、聖書の価値観は何と異なる事だろう。

 

苦しみを通して、苦しみの中でしか学べない多くの訓練を受ける。それは身について来る。苦しみの中で、主に拠り頼み、すがりつく事を膚で知る。本気で、真剣に主に向かい、自分を振り返り、主の御心を尋ね求める。自分の自我に満ちた姿を照らされる。あれもこれも自我のゆえ、エゴである事に気づかされる。

 

主を信じているつもりが、信じていない不信仰に気づかされ、教えられる。苦しみに会う時は、主が私たちに道を教えるためであり、その中で、御言葉の力、御言葉によって生きる事を知る時だ。

 

・・・・・・・・・・・・・苦しみに会った事は幸せだったと言っている。苦しみに会った事で過ちからも守られて行くと。自我が強く、自分の思い通りにしたいのが生まれつきの性質だ。それが砕かれ矯正されて行く。その中でしか聞けない御言葉があり、心に迫る。頭でなく真に主を知って行ける。