「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」ピリピ2:6

誰しも人生途上で、時に、理不尽な扱いを受ける事がある。ある人は、上司の失敗を皆の前で、自分のせいにされてしまった。「○○さんが、やっちゃったね」と言われ、ミスを指摘された。しかし、それは実際は自分のミスではなく、上司のミスであった。しかし上司は無言で、自分のミスだとは言ってくれない。

 

自分ではないという証拠も持っていた。自分は悪く無いのに、心は悶々だった。怒りが湧いて、帰宅し主の御前に祈った。自分は悪くない、悪くないと、訴えて祈っていると、主の十字架が目の前に迫った。悪く無い方が十字架で苦しみを受け、命を捨てられた事に、目が開かれて行った。

 

「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして仕える姿をとり」「自分を卑しくし、実に十字架の死にまでも従われた」考えられないほど低い所へまで下りて来られ、ご自身を捨てられた主。

 

主張して当然の特権を、私のために放棄された主の姿を前に、悪くない〃と主張する自分の姿を見せられた。主の十字架の前に、頭を垂れていると、その時、怒りが消えて、心が平安に満たされた。初めての経験だった。だが、このような出来事を通して、主の驚くべき、人の思いを越えた、愛のへりくだりを教えられる時とされ、逆に心恵まれ、心から感謝した。

 

・・・・・・・・・・理不尽な事があるも、十字架を見つめる時、言葉を失ってしまう。自分は絶対に正しいと主張するが、完全に正しい方が、十字架にかかり罰を受けておられる。それも自分のために。この主から目を離さず、主のお心を歩んで行きたく、助けを求めて祈りたい。