「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」エレミヤ18:4

ある人が言った「私は、教会に出たり入ったりしてたのですが、主を信じるのに、十年かかりました。砕かれなければ、神様はわからないですねえ。それからも砕かれて砕かれて、主を知って来た感じです」。自分が変わらないのは、自我が砕かれていないという事だ。

 

そのために、主は、対処出来ない事態に会わせたり、そりの合わない相手を、目の前に置かれたりする。嫌いな相手であり、嫌で嫌でたまらない。ある時は、どうしても我慢ならず、職場を変える。すると、行った先にも同じような相手がいて、悩まされる。「相手を、環境を、何とかして下さい」「相手を変えて下さい」と祈るのだが、祈りが全く聞かれない。

 

しばらくして、祈りが聞かれていない事に気づく。そして段々と、「これは、もしかして自分の問題?」と気づいて行く。祈りが変えられて、「主よ、私を変えて下さい」となる。そうすると、その祈りは聞かれて行く。祈りに答えられ、自分の内側が変えられて行く。へりくだらされ、自我が砕かれて行く。

 

自分が変えられるので、同じ相手が目の前にいても、自分は平安にされる。自我が砕かれれば、砕かれるほど、平安が流れ込み、主の事を知って行ける。主は陶器師であり、私たちを砕き、練り、造り上げられる。目の前の痛い、つらい、苦しい事態は、砕かれ、自分自身が変えられるために、主から送られて来たものだ。必ず平安へと導かれる。

 

-----------もしかしたら、これは私の問題?と気づける事が感謝だ。砕きは痛く避けたいが、避けずに主に委ねれば、どのように作り替えて下さるだろう。私を変えて下さいと祈っていこう。