「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた」マルコ10:48

バルテマイは目が不自由で、こじきだった。人々から物乞いをして、それにより生活していた。金銭を、物を、恵んでもらって生きていた。だから、主に「わたしに何をしてほしいのか」と問われた時に、生涯不自由なく生きて行ける金銭を求めても不思議はなかった。しかし、主に求めたものは、金銭ではなく「目が見えるようになること」だった。

 

それは、この方にはそれができるとの信仰があったからだ。それがなければ、はなから求める事はしない。彼には信仰があった。その信仰は「私をあわれんでください」との叫びとなった。彼を黙らせようと、大勢にたしなめられても、黙るどころか、ますます叫び立てた。

 

もし、主が受け止めて下さると信じられなければ、求めもしないし、ましてや叫び続ける事など出来ない、しない。彼は必死だった。今のこの時、このチャンスしかない、これを捉えなければ、一生に二度と機会は無いと全身で叫んだ。ザアカイも同様だ。今を逃してもうチャンスは二度と無い、木にまで登った。

 

もし、ここであわれみをもらわなければ、生涯盲人のまま、又、ザアカイは一生虚しい何の喜びもない暗い日々が続くだけだと、絶対にこのままでは帰れなかった。主はその切なる叫びに、答えて下さった。肉体の目も、心の目も開かれて、主について行った。

 

私たちはどうだろう。この求めがあるだろうか。得ても得なくても、どっちでもよいのだろうか。又、諦めているか。彼は何も出来なかった。唯一「あわれんで下さい」との叫びだけができた。この求めを、主は待っておられる。そして喜んで答えて下さる。

 

・・・・・・・・・「私をあわれんで下さい」と、主のあわれみを求めるのみの、自分では何も出来ない状況がある。「あわれんで下さい」の祈りに、主は答えて下さることを経験する。徹底的に無力な者を、主は愛して下さっていることを知る。