「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28 

弟息子が、放蕩ざんまいののあげく、父のもとに帰った。父は嬉しくて大喜びで迎え、宴会を開いた。その時に、兄息子が畑仕事から戻った。家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえ、何事かとしもべに聞いた。すると、ずっと行方不明であった弟が戻ったので、父が宴会を開いていると。

 

生死もわからず、行方不明であった弟が戻ったのだが、兄の反応は「喜び」ではなく「怒り」だった。激怒で、家に入ろうともせず、父が出て来てなだめた。その父に、兄息子は溜まった不満を爆発させる。父の言いつけを守り、ひたすら父に仕えて来た。それなのに、友達と楽しむための子山羊一匹くれたことがない事。

 

それが、身代を食いつぶした弟には、肥えた子牛をほふっている。一体どういう事かと。弟のことを「あなたの息子」と冷たく言い、自分の弟とは認めない。兄弟の関係を拒絶している。父には怒りで、弟へはさげすみだ。兄は戒めを守る事には、文句のつけようがないほど熱心だった。しかしそれは、父に心から喜んで従うのではなく、義務感で従っているだけだ。父への愛は無い。

 

弟息子は失われた者だったが、兄息子も同じだった。父とずっと距離的には一緒にいたが、心は全く離れていた。父の愛がわからない。父はそんな兄息子に、いつも一緒で、私のものは全部お前のものだと言った。兄にも無条件の愛が注がれている。

 

今、信仰生活に喜びが無く、「ねばならない」の義務感しかなく、心に不満や怒りがあるなら、そのままの気持ちを御父に告げて祈ろう。そうするなら、御父の無条件の愛を今一度経験して行くことになる。

 

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兄は、枠から出る事はできない。でも心は「ねばならない」の不満と怒りで一杯で、愛はなく、喜びもなかった。物理的距離は父親と近くにいたが、心は遠く離れていた。もしこの状態なら、あるがままの心の内を、そのまま主に吐き出し祈ろう。主に触れて行ける。