「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」詩編84:5

人生には、様々な出来事が織りなされる。胸が張り裂けそうな悲しい事や、悶々状態の苦しい事、理解に苦しむ理不尽な事、つらくてたまらない問題が起きる。

 

なぜ自分にとわけがわからないような事が起きる。苦しみや悲しみは、クリスチャンにも未信者にも同じように起きる。 クリスチャンになれば苦しみや悲しみが無くなるのではない。同じように苦しみは置かれている。しかし両者は異なる。その違いは、神を信じる人は、どんな苦しい事、悲惨な事、悲しみの中にも、神を認めて行く。そこに神を見て行く。神を信じているからだ。

 

だから涙の深い谷を通る時も、感謝が湧く所とする。そこに神がおられ、神の愛、慈しみ、助けを実際に体験して行くから。神を信じない人は、どんなに素晴らしい事があっても、そこに神を認める事は無い。神に感謝する事も無い。ラッキーであり、ただの偶然にすぎない。

 

神を信じる人は何があっても、どんな事が起きても、そこに神を認め、神の愛を信じる。どんな悩みが来たとしても、神を信じているから、涙の谷であっても、そこを泉の湧く所として行く。そこで神を見、神に出会って行く。そこでしか聞けない御言葉を聞いて行く。何をどうして良いかもわからない、まさにどん底で、慰めや平安の泉が湧き上がる。

 

なぜなら、そのどん底に神がおられるから。信仰とはそういう事だ。もし思い煩いや、不満、怒りがあるなら、神以外のものを見ていたり、神以外のものに頼っているのかも知れない。どんな苦しみの中でも、そこが泉の湧く所とされる。シオンへの大路にある人、神に向く人は、深い悲しみの中で、新たに主に出会って行く。

 

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信仰者にも、苦しみも悲しみもあるが、神無しの人生とは異なる。そこに神がおられ、苦しみ悲しみに意味があり、神に触れて行く。多くの事を教えられる。「後になると」パズルがつながるように、それらの意味が見えて来る。どんな時にも希望がある。