「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて・・」マタイ6:5 

偽善者のようであってはいけないと言われた。「偽善者」とは「役者、俳優」の意味だ。偽善者=俳優で、つまり演技をする者の事だ。俳優は何をするのだろう。脚本家が書いた脚本の通りに、その人物を「演じる」。監督が指示し、演技指導し、俳優はその人物を、監督の指示通り演ずる。それをいかに巧く演じるかで評価される。

 

その人物になりきる事が勝負だ。だが、俳優の場合は、はっきりしている。それは本人ではなく別人だ。自分では無いとわかっている。偽善者とは、別人を演技する事だ。私たちもしてしまう。それは「人に見られたくて」とあり、人の賞賛を得たいがためだ。

 

ある人が親に隠れて非行に走っていた。親の前では真面目な良い子、裏では非行ざんまい、しかし完璧に顔を使い分けていた。親を見事に欺き、演じ続けた。しかしそうしている内に、どちらが真の自分か、本当に自分でもわからなくなってしまったと。演技をし、人を欺いていた、その欺きが自分に向かい、自分が自分に欺かれてわからなくなってしまう。

 

自分は良い人だと信じ込む。これが偽善の最も恐ろしいところだ。信仰に偽りが入り込むと、信仰自体が成り立たなくなり、信仰の破船に会ってしまう。御霊が偽善を示そうとされると、拒否してしまう事になる。「罪は無いという言うなら、自分を欺いており、真理は私たちの内にない」。御前に正直でいよう。御前では決して良い子にならず、あるがままの気持ちを告げて行こう。偽善から守られる。

 

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良い人の演技を続けていると、人にほめられ、人から良い人だと言われ続ける。いつしか自分が自分を良い人だと信じ込む。偽善の結果だ。信仰に偽りが入ると、破船してしまう。信仰が成り立たない。主の御前に正直でいよう。あるがままを愛されている事がますますわかる。