「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである」創世記11:9

最初、全地は一つの言葉だった。互いに意思疎通ができて、人々の交流がなされていた。そんな頃、人々は移住して、シヌアルという地に定住した。彼らは、れんがを作る技術が与えられ、れんがと瀝青で建築物を作ることができた。対話もでき、肥沃な地に住み、建築技術も与えられ、すべてが備えられ、神の素晴らしい恵みと祝福であった。

 

しかし「そのうちに彼らは」「天に届く塔を建て、名をあげよう」と言い出した。主への信頼を捨てて、自分たちが神にまで到達しようという、それが出来るという、人間の恐るべき高慢だった。「私は天に上ろう、いと高き方のようになろう」と言った明けの明星、サタンであり、「神のようになり」たいと罪を選んだアダムそのものだ。

 

神から与えられた技術、知識、能力を自分の欲のために、自分の栄光のために使うようになった。神は降りて来られ、阻止された。言葉を混乱させ、互いに通じないようにされた。意思疎通が出来なくなり、塔の建築は不可能になった。神の介入だ。神は高慢を砕かれる。

 

「彼らは建てるのをやめた」主はそこから全地に人々を散らされた。言葉が通じない時、そこに高慢が無いか。高慢が入る時、言葉が通じなくなる。神を差し置いて、自分が、自分がと、高ぶりが入っていないか。主の御前にへりくだる時、必ずそこに一致と平安がある。

 

--------

自分が、自分がといつも自分の事で一杯なら何も入ってこない。創造された神から離れては本当の幸せはなく、力もない者だと認めていく時に始めて、恐れず平安に人の言葉に耳を傾けられるのではないか。