「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6

あなたも、人生において進路が閉ざされる経験があるだろうか。自分の切に願っている進路が目の前で閉ざされる。入学試験、就職試験の不合格やら、様々な事で経験する。さあ、今から仕事に就く、入学するという時に、病に倒れたりする。「なぜ?」「どうして?こんな事に?」非常に悲しくつらい経験だ。

 

パウロもアジア州で、さあ、宣教しようとしたところ、御霊に止められた。ビテニヤの方へ行こうとしたが、それも阻止された。御霊の導きは、時に私たちには理解できない。しかし、それが理解できなくても、又、どのようであっても、そこに「神を認め」、神の御心を信じて行くこと、それが信仰によって生きるということだ。

 

結果的に、パウロはマケドニヤに渡るよう導かれた。そこには、ヨーロッパ宣教という遙かに大きな御心が備えられていた。進路を止められる事は、導きを失う事ではない。道に迷ってしまったように感じ戸惑うが、御心が別にあるとの導きだ。

 

ある人は大きなプロジェクトに関わり、すべての準備が順調に進み、さあこれから開始という時に、過労に倒れ入院となった。思わず「なぜ、どうして!」と落胆しそうになったが、信仰に立ち、この事に主を認めて、感謝を献げた。

 

するとそれは益とされ、祝福の時とされた。身体をしっかり休める事ができて、何とベッドの上で祈りに集中し、専心する時とされた。その祈りは用いられ、素晴らしく答えられ、プロジェクトは大成功に終わった。

 

・・・・・・・・・・・・・

「どこにおいても」とあり、思い通りにならない状況が数々起きるが、そこに主を認める時に、見方が変えられる。主の変わらない愛、万事益、災いはなく主の立てられた計画・・神視点に立てられて行く。「道をまっすぐに」状況は変わらずとも、心がまっすぐに=平安にされる。