「シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く」・・彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」 ヨハネ21:3

人は、本当の自分の姿にきちんと向き合わない限り、自分が変わる事はないと言われている。見たくなくて、目をそらしたり、逃げたりするなら、何一つ変わらない。岸辺で「食べる物がありませんね」という声がした時に、弟子たちは「はい、ありません」と現実を認めた。

 

プロの漁師であったペテロたちが、ガリラヤに戻った時、何もなすすべなく、再び網を取り、以前にしていた漁をした。ベテラン漁師であったにかかわらず、一匹もとれなかった。収穫ゼロだった。主を裏切ったペテロは心に深い痛手を負い、これなら出来ると唯一自信のある漁をするが、全くとれない。挫折感、屈辱感、空虚感はいかばかりだったろう。

 

ありのままの無力を認めた時、「舟の右側に網をおろしなさい」と声が聞こえて来た。何だかわからないが、その声に従い、網をおろすと、何と驚くべき大漁だった。網を引き上げられないほどの、おびただしい魚だった。ヨハネが以前の光景と全く同じである事に、主だと直感した。「主です」の声に、ペテロは湖に飛び込み、主のもとへ行った。

 

陸地に上がった時、炭火があり、魚とパンがあった。それを見た時、ペテロは、主を裏切った時の、あの炭火が脳裏に浮かんだだろう。主は、ペテロに三度「わたしを愛しますか」と問われた。「私の心を見て下さい、主はすべてご存じです」と答えた。砕かれたペテロがそこにいた。主の愛はそのペテロを見事に回復させた。

 

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無力を認めたら最後立ちあがれないこの世の絶望とは違う。無力を認めた先に、主の栄光を拝するチャンスが備えられている。何という救いだろう。この世にいる限り何度でもやり直せる。いつも支えられている。主を賛美したい。