「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16

二人の弟子たちが郷里に向かっていた。主が十字架で死んでしまい、落胆と絶望で、話し合ったり、論じ合ったりしながら、歩いていた。復活を信じない彼らは、「暗い顔つき」だった。そこに主が現れ、彼らのかたわらを歩かれた。しかし彼らには主だとわからない。目がさえぎられていた。

 

何を話しているのかと問われ、主に向かって「イエスのことです」と言う。面白い光景だ。女たちが墓に行くが、御使いがイエスは生きておられると告げた、と言うのですと。まるで復活は他人事だ。無関係の傍観者的態度だ。主は、その彼らに「信じない、心の鈍い人たち」と、「ふたりの目がさえぎられている」原因は不信仰だと指摘された。

 

「イエスご自身が近づかれ」たのは、そんな彼らに信仰を与えるためであった。主は御言葉を語られた。十字架の死の意味と復活の事を説き明かされた。弟子たちはその時、不思議だが心が内に燃えて来るのを感じた。そして御言葉に耳を傾けて行った時に、信仰がよみがえって来た。別れ道に来た時に、主に一緒に泊まるよう切に願った。

 

その食卓で、主が目を開いて下さり、主だとわかった。不信仰になってトボトボと失意で故郷に帰る弟子たちに、主の方から近づき、ご自身を現し信仰をよみがえられせて下さった。不信仰を信仰に変えられた。今日もよみがえりの主が私たちのかたわらを歩き、信仰を助けて下さっている。

 

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不信仰の目で見るなら落ち込む失敗も、信仰の目で見るなら全く別の意味に変わる。主に与えられたいのちは信仰によって豊かにされる。喜べない日も主に差し出そう。主は助けてくださる。