「わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11:28

新しい性質を与えられた私たちは、主に従い、主に喜ばれるように歩みたいと思う。しかし「恐れないでただ信じていなさい」と言われるが、どうしても主の約束を信じる事の出来ない自分がいる。目前の状況に、圧倒され飲み込まれて、主が全能であり、不可能が一つもないことを信じる事ができない。

 

不信仰を恥じて、信じようとするのだが、どうしても信じる事ができない。又、嫌いな相手を「嫌ってはいけない」「愛さなければ」と思う。裁いたり、憎むとすぐに平安が失せる。だから余計に愛さなくてはと、頑張る。だが幾ら頑張っても、どうやっても嫌な相手を愛せない。何とか愛そうとするのだが、むしろますます嫌いになるばかりだ。しんどくてたまらないし、平安は無い。

 

そんな堂々巡りの中で、自分の力で頑張っている事に気づかせられる。気づくのだが、また肉の力で頑張ってしまう。肉はどこまでも根深く根強い。何度も繰り返す。自分の力でやれば、やるほどますます失敗する。やがてもう疲労こんぱい、疲れ果ててしまう。そんな私たちに、主は招かれている。「疲れた人はわたしのところに来よ」と。「わたしが休ませるから」と。弱いままで良いと。わたしのところにおいでと。

 

クタクタのヘトヘトになって、主のもとに行き、「どうしても信じる事ができません」「愛せません。愛したくもありません」と重荷を下ろす時に、そのままを受け止めて下さる。不思議だが、事態が展開して行く。新しい気づきが与えられて行く。弱いままでよいとの主のもとへ、絶えず行く時に、律法の苦しみから、恵みの世界に入れられて行く。御霊の気づきが与えられ、心が解き放たれて行く。

 

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主に「できません、助けてください」と言える人生に入れられている幸いを忘れないでいよう。自分の思いが先立つと「休ませてあげます」の主のお言葉も虚しく聞こえる。いつも主に頼れる。