「イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう』」ヨハネ6:67

私たちは、どんな動機で主を信じ、又、従っているだろう。主は、ご自身を求め、従って来る者を決して拒まれない。しかし、祈りを聞いて欲しい、助けて欲しいとの強い思いがあったとしても、それがどんなに熱心であっても、もし自分の欲求を満たすためだけなら、どうだろう。

 

遅かれ早かれ、どんなに祈っても願いが叶わない、思い通りにならない時に、失望して主のもとを離れ去る。多くの弟子たちも自分の思い通りでない主から離れ去った。実は従っているのではなく、自分の利得のために、主を利用していただけだった。

 

「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」。しかし、真に従いたいと願う人は、そこで、離れ去るのではなく、自らの欲望満足のために、従っていた事に気づかされた事に感謝する。悔い改めて、信仰のあり方を軌道修正されて行く。

 

間違った方向に進む者を、御霊は示し、気づきを与え、御心の方向へと変換させて下さる。彼らは、主の「肉を食べ、血を飲む・・」との言葉を、「ひどい言葉」だと言った。受け入れ難い拒否反応だ。それは不信となる。自分が、主より上であるので、自分の知識を越えると、主を捨ててしまう。理解できないのなら、へりくだって、主に教えてもらおうとはしない。

 

そんな時、ペテロは「主よ。私たちはだれのところに行きましょう」と信仰告白をした。信じ、従って行く時に、初めて「神の御心を行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかる」と御霊により、実感を持って、主を経験して行ける。

 

-------------

いのちを与えるのは御霊で、肉は何の益ももたらさないと言われる。祈りをもって御言葉を読んでいると、肉の強い影響は消え、御言葉が心に入ってくる。いつも主の傍で主に尋ね、求めていよう。