「彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ」民数記22:31

有名な、ろばが喋る箇所だ。神はバラムに「彼らと一緒に行ってはならない。その民を呪ってもいけない。祝福されているからだ」と言われた。にもかかわらず、出て行くバラムの前に主の使いが抜き身の剣を手に持って、立ちはだかった。ろばはうずくまってしまい、バラムは杖でろばを打った。

 

するとろばがバラムに、「何で打つのか」と喋った。だが主の使いがバラムに、「敵対して出て来たのは、わたしだ」と言った。「あなたの道がわたしと反対に向いていたから」と。私たちは誰しも、痛い事、苦しい事、問題は回避したい。苦しみや悩みが、好きな人などいない。そのため、痛くてつらい事態を、避けて、何とか逃れたいと思う。

 

しかし、神は、私たちが間違った方向へ進まないために、行く手にあえて障害物を置かれる。私たちを立ち止まらせるためだ。運が悪かったのでなく、たまたまそうなったのではなく、神の取り扱いだ。不運なのではない、又、立ちはだかっている相手を責めるのではなく、神の取り扱いを認めることだ。

 

その状況の中で、神のメッセージを受け取ろう。何を教えたいのか、何に気づかせたいのか。今、あなたの行く手が阻まれているなら、状況ではなく、まずそこに神を認めよう。神が立ちはだかっておられる。その道は御心とは違うのかも知れない。又、押し通そうとしている事は間違っているのかも知れない。

 

何かを教えたいと思っておられる。目の前の状況に神を認め、自分の思いを置いて、神の御心を求めよう。祈りの中で、必ず正しい道、御心の道に、軌道修正しながら導いて下さる。 

 

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押し通そうとするなら神はあえて「行きなさい」と言われる。御心と思っても祝福がなく混乱が続いているなら、自分でこじ開けているのではないかと御神に尋ねてみよう。