「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩篇1:2

広大な砂漠が続く中に、川があり、水がある。そしてその川のそばには緑豊かな木々が生え、みずみずしい葉が生き生きと息をしている。砂漠の日照りのまっただ中において、水路のそばに植わった木々は青々と葉を茂らせている。「水路のそばに植わった」がキーワードだ。

 

どのような苦しい悲しい試練の嵐の中でも、その木は青々と茂り、決して枯れない。なぜなら「水路のそば」に植わっているからだ。水路から絶えず水分を吸い上げ、十分に回り、葉をみずみずしく茂らせて行く。「その葉は枯れない」。木の問題でなく、どこに植わっているかの問題だ。

 

同様に私たちも水路のそばに植えられた木だ。常に豊かないのちが水路から流れて来る。御言葉に根ざして、御言葉を喜びとし、御言葉を絶えず口ずさむ。そこから力と喜びが湧き出て、それによって生き生きと生かされて行く。「何をしても栄える」のは、商売繁盛とか、五穀豊穣、無病息災、家内安全といった御利益ではない。

 

何でも自分の思い通り、願い通りになるのではない。御言葉を喜びとする人の願いは、神によってきよめられて行き、軌道修正されながら、御心へと導かれて行くので、神のお心にかなった願いを願って行くようにされる。それゆえそれは叶えられる。人生に神の御心を求めて行くから、豊かに祝福されて行く。

 

結局、人生の土台を何にするかだ。主の教えか、自分のはかりごとか。主に頼るのか、自分の力に頼るのかだ。気づきを与えられつつ、主を見上げて、拠り頼んで行こう。すでに水路のそばに植えられているのだから。

 

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尽きることのない流れから豊かな養分を受けて育つ木のように、主は御霊によって私たちを大きく青々と成長させて下さる。朝に夕に主の教えを慕おう。