「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10

信仰人生において、苦しみや悲しみ、悩み、問題は必ず来る。それらを用いて、主は私たちを訓練し鍛え、成長させて下さる。しかし大事な事は、正面から受け取る事だ。どうしても痛くて、つらいので、避けて、逃げようともがいてしまう。それなら、ただ痛くて苦しいだけで、何の学びも得られない。

 

ある人は試練の苦痛に、ただただ頭をおおいうずくまっていただけだったと。祈る事も、求める事も何もせず、試練として受け取っていなかった。そのためただ痛いだけだったと。苦難に際して二つの選択肢がある。一方は信仰の目で受け止め、口からは信仰の言葉を語って行く。他方は愚痴と不満を言い、又、反抗し、周囲を、相手を責めて行く。

 

相手を責めると、その時は肉が快感を得、解放感を得る。が、その結果、周囲に害毒を流し、証しを壊し、自分も平安が無く、怒りや不満、いら立ちで一杯いになる。だが主を見上げ、信仰もって事態を受け止めて行く時、そこに主が働かれ、祈りが受け止められ、自分自身の心も守られる。

 

試練の受け止め方で、天と地ほどの差が出て来る。今までのあの時、この時、どうだったろう。信仰人生、これからも数々の試練がやって来る。主が私たちを救って下さったのは、悩みの無い、問題の無い平穏な生活を与えるためにではなく、自己中心が砕かれ、御子のかたちに変えられ、聖くされるためなのだから。主の目的に焦点を当てて、試練を受け止められるよう祈ろう。

 

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痛い事には触れたくなく、逃げてしまいたくなる。しかし何かを教えたくて、さじ加減ピッタリに与えられている、目の前の事態に向き合えるよう祈ろう。向き合って行くなら、自分が変えられて行く。そして主を更に深く知って行ける。