「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18:12

「へりくだり・謙遜」と「卑下」は違う。しかし、しばしば勘違いしてしまう。自己卑下は、「いえいえ、自分などは」「つまらない者です」とする。そして、どうせ自分はダメ、何をしてもダメ、と気力が失せ、ますます劣等感に陥る。そこに信仰は無い。

 

又、偽りの謙遜がある。腰を低くする事が謙遜と勘違いし、「いえいえ私などがとんでもない」と決して上座へは行かず、下座でうろうろする。しかしもし上座に座る人がいれば、何と常識の無い人と心の内でさばく。それは自分も実は上座に座りたい思いの裏返しだ。

 

自分では謙遜になる事は不可能だ。肉で謙遜になろうとすると、更に高慢になる。真の謙遜は、砕かれるところから来る。砕かれる時、高慢でいる事ができなくなる。ある人が若くして成功者になった。それも群を抜いての大成功だった。謙遜は大切であり、へりくだらなければならないとわかるのだが、どうしてもだめだったと。成功ゆえに、高慢が頭をもたげ、どうにもならなかった。

 

幾らへりくだろうとしても、ムクムクと高ぶりが出て来る。まだ未熟で、霊的経験も浅く、高慢になってしまったと。そんな成功の絶頂にいた時に、思わぬほころびが出て、築き上げたものが崩れ落ちた。体調も崩してしまった。主の取り扱いであった。苦しい試練は砕きとなって、打ちのめされたが、自分は大きく変えられて行った。

 

へりくだらせて下さり、「苦しみにあった事は、私にとって幸せでした」と心から真に感謝できた。主の関与が無ければ、恐ろしい高慢に陥って、どうなっていたかわからない。主の懲らしめ、取り扱いは、主の愛だ。いつも目の前の状況でなく、その中で主が教えようとして下さっている事に、そのメッセージに目を向けて行きたい。

 

-------------

生かされている事だけではなく喜びも感謝も悔い改めも、自分発では出来ない。主によってしか満たされない一つ一つに感謝したい。主によらなければ謙遜にはなれない高ぶる心を持っている。