「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」詩篇55:22 

時に見る光景がある。小さな子供が、口の狭いキャンデーボックスに手を突っ込み、飴をいっぱい握りしめ、手が出ないと泣き叫んでいる。飴を放すと、手が出るのだが、絶対に飴は放さず泣くばかり。滑稽だが、私たちの霊的生活に似ている。例えば、嫌な、赦せない相手がいて、心が悶々とつらくてたまらない。

 

平安が無く、喜びも無く、心は苦しい。飴を手放すなら、ボックスから手が出て、自由になるように、憎しみや裁く思いを手放す時、心は解放され、喜びと平安が戻る。しかし、強固な自我は、放したくない。苦しいのに、赦したくないし、愛するなどとんでもない。嫌いなのだから。罪の性質だ。しかし心はつらい。

 

そんな時、「赦す事が出来ません」「赦したくありません」と自分の姿をありのまま認める事から、主のみわざは始まる。祈りに答えて、主が赦せるように、様々導いて助けて行って下さる。ある人が生まれた子供の難病を、どうしても受け入れられなかった。なぜ?自分の子が?と涙は溢れ、グルグル思いは回るばかりで、苦しく、悲しく、又、神に対して反抗している自分もいた。特に同年齢の子供を見れば涙が溢れた。苦しくてたまらず、とうとうもう悶々も反抗も苦しみも限界で、許容量オーバーで、主に対してギブアップした。自分自身も子供も、将来も、不安も恐れも、自分の思いも何もかもを、主に明け渡した。

 

その時、状況は同じなのに、心に初めて深い安堵と平安が臨んだ。不思議だった。主は委ねる時に、みわざをして下さる。委ねられないで握っているなら、その事を主に告げて、ありのままの心を祈ろう。主があなたの事を、心配して下さっているのだから。

 

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偽らない心の内を祈ることを委ねる最初の一歩としよう。主の平安が来る。荷はあっても、主が心配してくださるの御言葉を自分のものとして今日も受け取ろう。