「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」エレミヤ31:34

あなたも失敗した事があるだろうか。ある人が大失敗をしてしまった。軽率な言動、行動に、後悔しても、しきれなかった。自分としたことが、よく考えもせず、何と愚かな事をしてしまったのか。取り返しがつかない。しかし御霊に示された。紛れもなく、それが自分なのだと。 本来の自分でないと思いたいが、認めたくないが、自分はそのような愚かな者なのだと。

 

高慢を砕かれた。主を見上げる事なく、肉で歩むと、欲望のままに歩んでしまう。自分がいかに罪深い者であるかを知らされ、心砕かれた。主の十字架がまさに自分のためだと思い知らされた。

 

それまで罪人と言われてもよくわからなかった。法に触れてもいないし、大罪を犯したわけではない。真面目に生きて来た。しかし自分が罪を好み、自然にしていれば罪を犯し、又、罪を犯しても、それも認識できず、平然としている罪深さを知らされた。辛い所を通ったが、初めて主の十字架が、誰のためでもなく、自分のためである実感が臨んだ。身にしみて、感謝が溢れた。

 

人前にも、隠しようのない失態であった事も益とされた。人に知られた事によってプライドは砕かれ、へりくだらされた。もし、人目に隠しおおせたなら、懲りずにいたに違いない。バレさえしなければ問題ないと、どんなに罪深い者であるかを、御霊は教えて下さる。

 

主のご愛と真実だ。罪を認めて、悔い改めるならきれいに赦される。何という恵みだろう。悔い改めて、悔い改めて、歩む時に、主の恵みがどんなに大きいかを知って行く。赦されて、赦されて、歩む事を通して、主の愛を頭ではなく、御霊によって知って行く。

 

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悔い改めた罪は、二度と思い出さないと主は言われる。自分の記憶にはしっかり残っているので「あの時のあの罪が・・」と言うと、主は「それは何の事か。わたしは知らない」と言われる。悔い改める度に、主の愛の大きさ深さを知って行く。罪赦されるとは何という恵みだろう。