私たちは人からの批判を経験する。人から批判される時、痛いが、吟味してみる事は有益だ。その批判が当たっているかも知れず、主からの忠告かも知れないからだ。思い当たる事があれば悔い改めればよいし、批判のための批判ならやり過ごせばよい。
私たちは人が気になって仕方がない。人にどう見られているかが気になり、良く見られたい。人目を気にして生きている。人目を気にせずに生きるためには、確固たる信念が必要なのではと思う。そうなら、人は人、自分は自分と思えるのではないかと。
しかしパウロは「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です」と言っている。パウロは自分では、やましい事は何も無いと。しかしそれで無罪なのではなく、主にすべてを委ねている。
自分を本当にさばくのは、自分ではない。人のさばきも、自分のさばきも意味がない。パウロは主に委ねていた。それゆえ彼はいつも平安でおれた。パウロは様々な批判、批評を受けていた。しかしそれは人間による判定であり非常に小さな事だと。自分の事を真に知っておられる方があり、その方に委ねているので、自分で自分をさばくこともしないと。
そこに人の目からの解放があった。パウロは一貫して、人相手でなく、キリスト相手の生活を遂げた。私たちも、人がどうこうでなく、耳を澄まして一心に主の御声を聞き、主を求めて行く時に、心はこの世のものでない、御霊の平安を与えられて生活して行ける。
-------------
自分を自分で裁くことからも解放されるというのは何と自由で幸いな生き方だろう。人を裁いたり裁かれたりする者でなく、正しく裁かれる主の前にヘリくだりお任せしたい。