「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです」Ⅰコリント12:25

人の弱さが見えた時、試されるのではないだろうか。ある人が、職場で、ペアで働く相手は多くの時間を共に過ごし、密接な関係にあるゆえ、どうしても相手の弱さが見えて来る。その時、心の中で、責めて、裁いてしまっていたと。アドバイスしたり、補ったり、共に負ったりするのではなく、まずイラ立ってしまい、心で責めて、怒りとなり、イライラするばかりで、平安が全く無かったと。

 

自分のプライド、自分の罪を見せられるのだが、同じ事を繰り返していた。又、それは家族に対しても、そうであった。自分の事は棚上げで、家族の弱さが見えるとイラ立ってしまい、思いやり、サポートするのではなく、裁いてしまう。そんな自分の姿が見せられて、主の御前の祈りに持って行った。

 

ことごとく主に告げて、日々に祈りを重ねて行った。 そんな中だったが、ある大きな試練が与えられた。それは涙で祈る日々で、いかに自分の力を誇っていたかが初めて思い知らされたことだ。砕かれ、へりくだらされた。プライドも打ち砕かれた。無力で、自分の力が何も無い事を認めた時に、初めて真に主に出会えた。十字架が迫り、自分がこのまま受け入れられ、愛されていることが実感としてわかった。新たな感謝と喜びが溢れた。

 

そして自分が変えられた事が発見できた。以前は裁きまくっていたが、相手のために祈ろう、何か自分に出来る事は、の姿勢に心が変えられていた。キリストのからだが、各器官が劣ったところをいたわり合うために与えられているように、家族に対しても、相手の弱さは、責めて裁くためでなく、補い合うために、与えられていると教えられた。

 

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人は皆、それぞれ弱さがある。又、その弱さも、それぞれ異なる。主と御言葉が無ければ、裁いてしまう。だが、主と御言葉に立つ時、それはいたわり合うため、補い合うためとなる。相手の弱さを自分が補い、又補ってもらえるなら、そこに分裂は無い。