「私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています」Ⅱコリント7:4

この世の喜びと、信仰による喜びはどこが違うのだろう。この世の喜びは、自分の欲望が満たされるところから来る。自分の願望が叶うこと、自分の思い通りになる事だ。そこに満足がある。そのためこの世の宗教は、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣、無病息災を約束する。

 

もし信心して、それが得られなければ、信心の意味が無い。他の宗教に乗り換える。しかし信仰による喜びは、自分の欲しいものを手にする喜びではなくて、主を信頼することができる喜びだ。主と交わり、その交わりが深められて行き、信頼関係が増して行く喜びだ。何にも代えられない平安だ。

 

この世の宗教は、願いを叶える、つまり欲望を叶えるという利益を提示する。人々にとってそれが喜びだと思っているからだ。しかしクリスチャンになっても、その価値観が根深く残っている。形は変わって来るが、問題解決がご利益、良い生き方や人格者になる事がご利益なら、願いの形が変わっただけで、根は同じだ。

 

それなら願いが叶わなかった場合に、不満とつぶやきでいっぱいになり、いつか主のもとを離れる事になる。願いが叶えられるために信仰しているので、それが得られないなら、他のものに移って行く。自分の欲望が叶えられるための手段だから。主は求めよと言われ、願いを叶えて下さる。

 

しかしもし願いが叶えられなくとも、主を信じ、主を愛して行く、そこに御霊の平安と喜びを経験して行く。そしてそれは、苦しみの中でも経験する。この世の与える喜びではない、御霊の喜びだ。そしてその平安と喜びは、誰も奪い去れない。

 

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外から来るものは流動的で一瞬だとわかっていても、喜んだり悲しんだりする。そんなもろく弱い土の器の中に主の宝を内包している。尽きない御霊の喜び励ましにあずかって今日も歩もう。