「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでなさって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください」マルコ5:23

会堂管理者であるヤイロの娘が、今にも死にかけていた。そのためヤイロは必死で、主のもとへ来て、助けを求めた。主は、それに応えてヤイロと一緒に出かけられた。その途上で、長血の女性が割り込んで来た。娘は危篤であり、一刻を争う。それなのに妨害が入り、ヤイロの心はどんなに焦り、急いた事だろう。

 

その女性が癒やされた時、使いが来て娘の死を告げた。もう主に来て頂く必要はないと。ヤイロの心はどんなものであったろう。絶望が襲おうとする瞬間に、間髪を入れず、主は御声をかけられた「恐れないで、ただ信じていなさい」と。別訳では「主はその話している言葉を聞き流して」、「主はその言葉に注意を払わず、心に留めず」となっている。

 

不信仰な言葉は、聞き流す必要がある。心に入れてはならない。信仰の言葉である、御言葉を心に入れて、不信仰な言葉は拒否し、シャットアウトすることだ。不信仰の言葉を入れると、不安、恐れ、疑心暗鬼に支配され、どんどんネガティブへと侵されて行ってしまう。心に握るのは「恐れないで、ただ信じていなさい」との主の言葉だ。

 

家に着くと、人々は大泣きし、わめき取り乱していた。娘はすでに死んでいた。目の前に突きつけられた現実であった。だが、主は「死んだのではない、眠っている」と言われた。人々は嘲笑った。主の言葉が理性、常識、見えるところに合わないからだ。しかしその言葉通りに娘は生き返った。どの言葉を受け入れ、どの言葉を聞き流すか、心が守られるために、見分ける事が非常に重要だ。

 

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四六時中、心に言葉が行き交っている。不安、恐れ、思い煩いの肉の言葉、サタンが吹き込む中傷やネガティブな言葉、心を見張っていなければ、流されてしまい、ほんろうされてしまう。聞くべきは神の言葉であり、御言葉に立てるよう祈っていよう。