「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Ⅰテモテ6:6

ある男性が、目の病で手術をした。ほんのかすかな視力が残ったが、仕事は不可能となった。運転も出来なくなった。バリバリと仕事をこなし、トップクラスの成績を上げていた有能な社員だった。前途を断たれ、真っ暗になっても不思議は無かった。幾らでも悲観的になり落ち込むことができた。 しかし彼はそうしなかった。主にすがり、祈りに祈って、否定的思いを拒否し、自分に与えられた目の前の状況を受け止めた。

 

切なる祈りにより、平安が与えられていた。「主は与え、主は取られる」。今まで与えられていたものはすべて、主からであり、それを取られるのも、主によるのであり、自分はこれからもずっと、主を礼拝して生きて行きたいと。心安らだった。

 

この事が、更に主との深い関係に入れられる、恵みとして受け止めた。「なぜ、どうして」と神を恨み、反抗する事もできたが、そうしなかった。彼の選択だった。周囲に素晴らしい主の栄光を現して行った。ある高齢の男性も、徐々に衰え、人の助け無くては生活出来なくなった。それを主からのものと受け止めた。

 

以前の自分なら、助けを受ける事は苦痛でしかなかった。生活の様々なサポートの手を、主からのものと感謝して受けた。今まで無かった「受ける」ことを学ばせられた。それにより、心に何にも替えられない平安が満ちた。どんな状況でも「満足」を下さる。

 

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常にどんな時にも満ち足りるという心の状態は自分の内にはなく、ただ主との交わりの中で与えられている。苦しみや悲しみ、不満の度に生きておられる主に祈ろう。主が思いを引き上げてくださる。