「求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです」Ⅰヨハネ3:22


こんな人が目の前にいたらどうだろう。いつも会えば愚痴ばかり、人の悪口しか言わない、噂話にうんざりさせられる、自慢話ばかり、人の話はいっさい聞かず、自分の事のみ・・これではとてもじゃないが「好き」になれない。しかし、聖書に一言も、相手を好きになれとは言っていない。「愛しなさい」だ。

 

愛するとは、好きになる事ではない。好きになれなくても構わない。好きになれずとも、愛することはできる。聖書の中で言っている愛は、すべて「意志的愛」だ。感情の愛ではなく、意志の愛だ。感情はコントロール出来ない。しかし意志は出来る。感情はコントロールできないので、好きになる事が愛する事なら一生不可能だ。

 

主は意志の愛を見て、受け入れて下さっている。愛するとは、相手の必要が生じた時に、自分に出来る事で犠牲を払うことだ。自分の労力、時間、富の一部を献げることだ。「ですから私たちは兄弟のために、いのちを捨てるべきです」。例えば、「塩狩峠」のような劇的に命を献げるなどと大きな事は普通の人生では起こらない。

 

日常生活で、目の前の小さな事であっても、自分の持っているものを献げて行く事、それが愛する事だ。少しの時間を犠牲にしたり、労力を払ったり、富を献げたり、自分にできる事をすればよい。今、具体的に御霊により示される事があるだろうか。実践する時、神の御前に心を安らかにされる。そして求めるものをいただける。祈りが答えられて行く。

 

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感情で好きにはなれなくても、意思で相手の側に立てるよう成熟した信仰で御言葉に従いたい。自分にできることは人より僅かでも、主のために示す愛で自分自身が深く養われていく。