「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」 ヨハネ8:9

パリサイ人、律法学者たちが、姦淫の女性を引きずり出した。その目的は、彼女を利用して、主を罠にはめようとの魂胆だった。律法では石打ちの刑だが、あなたはどうするのかと詰め寄った。主は黙っておられた。だが彼らが問い続けて止めないので、「あなたがたの内で、罪の無い者が、最初に石を投げよ」と言われた。

 

すると彼らは一人また一人と、結局全員が出て行き、誰も石を投げる者がいなかった。彼らは自分の内側を見た。そして罪を認めたのだ。内側を照らされ、真実が明るみに出されようとしていた。チャンスだった。自分の姿に向き合う事ができた。しかし逃げる事もできた。その時彼らは、皆逃げた。

 

主の言葉に導かれ、自分の罪を見たのに、目をそむけた結果、罪はそのまま残った。だが彼女は逃げずにそこにいた。裁きからも逃れようとせず、今からどうなろうと、主のもとにとどまった。全員の冷たい視線の裁きの中、主だけは違った。主の暖かい愛を全身に感じた。だからその主の愛に身を委ねた。その時「あなたを罪に定めない」と全き赦しを受けた。

 

私たちはどうだろう。御霊に示された罪を認め、悔い改める時、赦される。新しい歩みを始めて行ける。しかし目をそらすなら、闇の中であり、ますます見えなくなる。罪がわかるなら、それは恵みであり、御霊の光による。主の愛の中だ。目をそらさず、悔い改めるなら、新しい歩みに入れられる。

 

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言い訳や弁解が自分の罪を覆い隠してしまうと罪は残ったままだ。御霊様に示され本当の自分の姿がはっきり見えたなら感謝だ。心から主に悔い改めることができる。